メキシコの壁画「アラメダ公園の日曜の午後の夢」が有名になった理由とは? | mikolog

メキシコの壁画「アラメダ公園の日曜の午後の夢」が有名になった理由とは?

ラテンアメリカの旅

メキシコの「ディエゴ・リベラ壁画博物館」という博物館に、巨大な壁画「アラメダ公園の日曜の午後の夢」が保存されています。

歴史上の登場人物や、政治家、有名な人たちがたくさん描かれているみたいだけど、その背景のストーリーや、この壁画のメッセージって何?と思う方もいるのではないでしょうか。

今回は、無類のメキシコ好きの筆者が、壁画「アラメダ公園の日曜の午後の夢」について、タイトル、主な登場人物の解説、そして「壁画」という手段が用いられた意味について書いてみたいと思います。

この記事を読めば、壁画「アラメダ公園の日曜の午後の夢」が、なぜメキシコ壁画の傑作と言われて有名になったのか?というその理由、そして壁画に込められたメッセージについて、分かっちゃいます!

早速読んでみましょう。

作品概要

Sueño de una tarde dominical en la Alameda Central(アラメダ公園の日曜の午後の夢)

まず、作品概要は以下の通り。

  • タイトル:Sueño de una tarde dominical en la Alameda Central(アラメダ公園の日曜の午後の夢)
  • 制作:1947年
  • 作者:Diego Rivera(ディエゴ・リベラ)
  • サイズ:4.17m×15.67m
  • 重量:35トン
  • 保存場所:Museo Mural Diego Rivera(ディエゴ・リベラ壁画博物館)
  • 博物館住所:Balderas S/N, Colonia Centro, Centro, Cuauhtémoc, 06000 Ciudad de México

この作品は、メキシコシティの「ディエゴ・リベラ壁画博物館」に、保存されています。ディエゴ・リベラ壁画博物館は、「アラメダ公園の日曜の午後の夢」を展示するために建てられたもので、この壁画を常設展示しています。筆者が行った時には、他にも現代メキシコアートの展示がありました。

壁画博物館のすぐそばに、舞台となった「アラメダ公園」があります。噴水があり、緑がいっぱいで、子供が遊んでいるような、市民の憩いの場といった感じ。

この壁画の高さは4m、幅は15m。めちゃくちゃ大きいです!実際に絵の前に立つと、まずその大きさに圧倒されます。

下の画像の中央のカトリーナ(ガイコツ婦人)の腰のあたりに大人の頭がきます。実際の壁画では、描かれた人たちは、ほぼ等身大の人間の大きさでした。

中央のカトリーナ

筆者がこの壁画を見た時、友達とおしゃべりしながら博物館に来たのですが、壁画の前で迫力に圧倒されて、しばらく無言になっちゃいました。言葉が出てこなかったのです。ここまで絵に衝撃を受けた経験は、人生で初めてだったかもしれません。

そしてそのまま小一時間この絵を見続け、その次の日にも、またこの絵を見に来るほどの衝撃を受けました。

作者は、メキシコでも最も有名な画家の一人、ディエゴ・リベラ。「この作者は、狂ってるか本物の天才か、どちらかではないか?」という話を、一緒にいた友人と話した記憶があります。普通の人にこんな絵は描けないと思いました。なぜそう思ったかについて、以下で説明していきます。

タイトルについて

まず、タイトルから見てみます。

タイトル:Sueño de una tarde dominical en la Alameda Central(アラメダ公園の日曜の午後の夢)

とても長いです。ここで、すでに狂気を感じるタイトルの長さです。タイトルの持つ意味について、詳しく考えてみます。

①スペイン語と日本語で印象が全く異なる

スペイン語のタイトルは、「Sueño de una tarde dominical en la Alameda Central」。

これを日本語に訳すと、形容詞が一番先頭に来るので、「アラメダ公園の日曜の午後の」と訳されます。日本人にとっては、「アラメダ公園」という、聞いたこともない固有名詞が冒頭に来てしまうことで、「何かよく分からない」ぼんやり感を醸し出しています。

が、スペイン語でタイトルを読むと、名詞が一番冒頭に来ているので、日本語とは全く別の印象を受けることに気づきます。

  1. Sueño(夢)
  2. de una tarde dominical(日曜の午後の)
  3. en la Alameda Central(アラメダ公園にて)

スペイン語では、形容詞がどんどん後ろに付くので、「夢」「日曜の午後」「アラメダ公園で」という語順です。日本語と真逆なんですね!

つまり、スペイン語のタイトルを読んだときに、一番印象に残る単語、それは冒頭にある「Sueño(夢)」です。「公園にたくさんの人たちがいるが、全ては夢」という主張が脳内に強く残ります。

その後の長い形容詞「de una tarde dominical(日曜の午後の)en la Alameda Central(アラメダ公園にて)」は、「Sueño(夢)」ほどのインパクトはありません。

この作品は、「日曜日のアラメダ公園で見た夢」だと言っています。ゆえに、これは現実ではないし、作者の思想でもない、単なる夢にすぎない。という意味だと思われます。

作者は一体、誰に対して説明しているのでしょうか。

②リズム感:韻を踏んでいる

次に、タイトルをスペイン語で音読すると、韻を踏んでいてリズム感があることに気づきます。

Sueño de una tarde dominical(スエニョ・デ・ウナ・タルデ・ドミニカル
en la Alameda Central(エン・ラ・アラメダ・セントラル

Alという音が2回続くことで、とてもテンポ良く聞こえ、何だか統一感も出ています。

もし普通に「日曜日に」という情報だけを言おうとしたら、一般的に日曜日を指すメジャーな単語、「domingo」を使うことも可能です。でも作者は「dominical」として、韻を踏んでいます。

メキシコ人の話すスペイン語は、リズムが良くて、まるで音楽みたいだなと思うことがあります。実際にメキシコ人のスペイン語の先生に「もっと歌うように話しなさい」と言われたことも。そんなメキシコ独特のリズム感が、ここに現れています。

③「Dominical(日曜日の)」という単語のニュアンス

タイトルについて3つ目の考察です。「Dominical」という言葉は、「日曜日の」という意味で、実は「キリスト教」のニュアンスが含まれています。

日本語の「日曜日」という言葉は、太陽が語源となっていて、言葉の持つイメージは「休日」とか、太陽の「日」ですね。

一方で、スペイン語の「Dominical」は日曜日という意味の他に、「主日(イエス・キリストの復活の日)」という意味も併せ持ちます。

日曜日に、キリスト教の人たちは何をするでしょうか。この壁画が描かれた当時、敬虔な信者であれば、毎週日曜日は家族で教会のミサに行く人も多かったのではないでしょうか。

このように「Dominical=日曜日の」という単語には、日本語の「日曜日」には無い宗教的な意味も含まれています。

なぜ壁画だったのか?

メキシコのUNAM(国立自治大学)の壁画

画像は、メキシコのUNAMと呼ばれる国立自治大学にある有名な壁画です。作者はフアン・オゴルマン。この建物は図書館なのですが、遠くから見てもめちゃくちゃ目立ちます。

1920-1940年頃、メキシコでは革命と連動した壁画運動が起こりました。メキシコ革命の意義や、メキシコ人としてのアイデンティティーを民衆に伝えることが目的でした。

ラテンアメリカの支配文化

「お金が肌の色を白くする」と言われた支配文化

ここで少しだけ、ラテンアメリカの民族構成について説明しておきます。上のような図を何となく頭に入れておくと、ラテンアメリカ地域の仕組みや、現地の人たちが長年置かれている立場、心境などが分かってきます!

上の図は、地域の支配文化をざっくり説明したものです。ピラミッドの頂点にいるのが白人、つまり「カトリック、スペイン語、欧米、都市」の人々。

真ん中の段の「メスティソ(混血)」とは、英語で言う「ミックス」というような意味のスペイン語です。白人との実際の混血の人々や、あるいはスペイン語と都市文化に参入することが、メスティソと呼ばれました。

農村や、先住民の人たちは、一番下の段の「インディオ(先住民)」に表されるように、白人の征服者によって弾圧され、識字率も低かったそうです。(出典:「ラテンアメリカ」自由国民社)

文字が読めない人にも伝えられる手段

こうした社会背景を踏まえて、「なぜ壁画だったのか?」と考えてみると、「壁画であればいつでも誰でも見ることができるから」と考えられます。例えば書物の中でメキシコ人のアイデンティティーを訴えても、文字が読めない民衆にメッセージを届けることはできないからです。

このように、いつでも目にすることができて、誰にでも分かりやすく、難しい知識が無くても理解できるのが、メキシコの壁画運動だったのです。

このような社会的背景を、ほんの少しだけ知っていると、実際にラテンアメリカの農村や都市部に行く時、あるいは歴史的な遺跡やアートを見る時に、更に理解が深まるのではないでしょうか。その上で現地の人たちの声を聞くとき、彼らの思いが直接自分の中に入ってきて、忘れられない経験になります!

登場人物はなんと約30人

それでは、絵を見ていきます。登場人物はなんと約30人。革命家、芸術家、先住民族、農村民、政治家など、一人一人に膨大なストーリーがあるのです。全部は紹介しきれませんが、主要な人たちを見て行きましょう!

壁画の中央部分

中央にいるガイコツ婦人は、「ラ・カトリーナ」と呼ばれ、メキシコ人から愛されています。11月2日の死者の日には、アイコンとなったカトリーナが街中に飾られたり、カトリーナの変装をしたメキシコ人がいたりします。

カトリーナは、当時の支配階級である白人に憧れる庶民層を、ユーモラスに描いたと言われています。そしてその首からは、蛇のようなモチーフの衣装をかけています。これは、古代メキシコの神様ケツァルコアトル。まさに、先住民や庶民層を体現したのが、このカトリーナと言えます。

カトリーナがもう片方の腕を組んでいる男性は、ホセ・グアダルーペ・ポサダというメキシコの画家です。彼はカトリーナの生みの親とも言われて、その作品の多くにガイコツが登場します。彼は「金持ちも貧乏人も死ねば皆ガイコツだ」という意味を込めたそう。

ガイコツに見るメキシコ人の死生観

ガイコツはとてもメキシコらしいアイコンなので、ここで少しメキシコ人の死生観について考えてみます。これは以前メキシコの語学学校で、「死者の日」というお祭りについてのワークショップで教えてもらった話です。

死者の日(11月2日)は、日本で言う「お盆」みたいなイメージで、メキシコに約3000年も前から存在する行事です。亡くなった人間の魂が帰ってくる日だと言われています。そのため死者の日には、ガイコツのお菓子に自分の名前を書いたり、亡くなった人の名前を書いたりして、たくさんのマリーゴールドの花びらと一緒に飾ります。

メキシコ人の先生いわく、ガイコツの額に自分たちの名前を書くことで、「いつか皆死ぬことを忘れないように」しているんだとか。子供たちに対しても、恐怖心を与えずに「人は皆死ぬ」という自然なことを教える、とても良い方法なんだと話してくれました。

そして亡くなった人の名前もガイコツに書いて、毎年思い出すのだそう。メキシコでは、そうすることで、人はずっと生き続けると考えられています。親しい人の死は悲しいけど、悲しむだけじゃなくて、亡くなった人と一緒に生きていく、というのがメキシコ人の考え方なのかなと思いました。

でもメキシコ人にとって死者の日は、決して「悲しい日」ではありません。死者の日はパーティで楽しい日なんです!湿り気ゼロです。笑

近代になってメキシコに入ってきた「ハロウィン(収穫祭)」とも日付が近いので、死者の日とハロウィンが合わさって、10月末~11月初めは、もはやガイコツの仮装パーティーみたいになっちゃってます!

そして死者の日には、カトリーナの仮装をしたり、カトリーナの人形を飾って一緒に踊ったりします。カトリーナやガイコツは、おどろおどろしい存在ではなく、大衆にとってとても身近で、ユーモラスな存在なのです。

日本では「死=穢れ」

一方日本では、死は「穢れ」または「隠すべきもの」。8月の「お盆」も、何だか内輪でひっそり・しんみりしてますよね。

そして親しい人や家族を亡くした時に、葬儀の一環で「お清めの塩」を配ったりすることも。筆者は、この塩を目にして、若干ショックを受けたことがあります。愛する家族の死でも、塩をまいて綺麗にしなければならないのかな?と驚いちゃいました。

特に、田舎や地方に住んでいると、こういった「死を隠すべきかどうか」という議論自体を、誰かと共有することが憚られてしまい、あまり死について大っぴらに話すことはできない雰囲気も。

でも、自分もいつか死ぬのに、なぜ隠さなきゃいけないのか?実は今もよく理解できていなかったりします。また、亡くなった人について話すことも「タブー視」せず、たくさん思い出して話してあげたいなと思っています。

個人的には、「死=穢れ」だとは思っていません。ただ、日本では習慣として、死は隠すべきものと認識されていると思います。ここにメキシコと日本との、死生観の違いがあると考えます。

フリーダが手に持つもの

左から、ディエゴ・リベラ(作者)、フリーダ・カーロ(その妻)、カトリーナ

上の画像で、壁画の中央部分をもう少し詳しく見てみます。カトリーナが手をつないでいる小さい男の子が、ディエゴ・リベラの少年時代です。

その右隣にいる、眉毛がキリっとした女性が、奥さんのフリーダ・カーロ。ディエゴと同時代に活躍した、非常に有名なアーティストです。陰陽のシンボルを手に持って、ディエゴ少年の肩に優しく手を掛けています。

ディエゴ・リベラは女性関係が派手だったことで有名。フリーダの実の妹にまで手を出し、フリーダはその時の心情を「ちょっとした刺し傷」というタイトルの作品にし、めった刺しにされた女性を描いています。

筆者は正直言って、ディエゴに何の権利があってフリーダにこんな仕打ちをしているのかずっと疑問でしたが、この壁画を目にしたら、その謎が解けたような気がしたのです。これはしょうがないな、こんなすごい才能の前には、太刀打ちできないな、と直感的に思いました。

壁画の中で、フリーダが手に持つ「陰陽」は、宇宙は陰と陽の二つの要素がペアになっている、というような意味。切っても切れないご縁があるディエゴとフリーダの、運命的な関係を象徴しているのかもしれません。

先住民の女性の姿が現す、社会の複雑な構造

上の画像の中央に、黄色いドレスの先住民の女性が写っています。彼女もまた、ディエゴ・リベラと非常に親しい関係にあったとされています。彼女は、アラメダ公園に入っておらず、民衆に背を向けています。

このことから、社会の複雑な構造によって、「アラメダ公園」から除外されてしまった人たち、つまり先住民を代表する姿を描いたと考えられます。

「神は存在しない」

植民地時代や独立を描いた、壁画の左側

壁画の左側は、植民地時代や独立を描いています。青色の四角部分は、ベニート・フアレスという、先住民族から選出された初のメキシコの大統領。

その下の赤い四角部分を見ると、男性が手に何か紙を持っています。男性はイグナシオ・ラミレスというメキシコの作家・政治家で、19歳の時に「神は存在しない(Dios no existe)」という言葉で始まるスピーチをし、物議をかもしました。

そして作者ディエゴ・リベラは、この壁画を描いた当初、イグナシオ・ラミレスの手元の羊皮紙に「神は存在しない(Dios no existe)」と描きます。この一言が神職者の間で大問題になり、ディエゴは後で、別の表現に書き直すことになったのだとか。

「無宗教」のイメージ

神様が出てきたところで、「無宗教」についても考えてみます。よく日本人は宗教について仲間内で語る時に、「自分は無宗教」だと言うことがあります。確かに現代では宗教を意識する機会は減ってしまい、冠婚葬祭の時ぐらいになっていたりするのが実際のところ。

でも外国人が「無宗教」という言葉を聞くと、「この人は、神をも恐れないのか!?」とびっくりされちゃうことがあります。それぐらい、神様は人間にとって歯止めをかける、大きな存在だと思われているのです。

筆者は現代日本人代表のような、あまり宗教に関心のない人間です。でも海外にいる時や、外国人と話していると、気軽に宗教を聞かれることが多いので、その時は誤解されないように「仏教徒だよ、あまり信心深くないけど」と答えるようにしています。

でもそうすると今度は日本人に伝わりづらく、「仏教徒って珍しいですね、毎週お寺に行ったりするんですか?」とか聞かれたりします。このコミュニケーションは結構むずかしいですよね!笑

壁画の右側

農民たちとメキシコ革命の様子を描いた右側部分

壁画の右側は、農民運動とメキシコ革命が発展していった様子が説明されています。肌の浅黒い農村の先住民の家族が、白人の警官に虐げられている様子や、国旗と剣を持って蜂起するところ、有名な革命の指導者たちが、とても生き生きと描かれています。

これを見た時、筆者がそれまでに訪れたラテンアメリカの先住民の村で、出会った人たちの顔が思い出されました。

例えば機織りをしながら生活している人たちや、もっと貧しい農村でイモや家畜を育てながら暮らしている人たちに会いました。その農村でトイレに困って、知らない人に「お手洗い貸してください」と言ったら、快く家に上げてくれた先住民の末裔たちと、彼らの本当につつましい暮らしぶりなどが浮かんできました。

この壁画は、先住民たちの姿を描くことで、メキシコ社会の不平等さや、「正義は存在しない」という怒りを表現したのではないでしょうか。

まとめ

以上、メキシコの壁画「アラメダ公園の日曜の午後の夢(Sueño de una tarde dominical en la Alameda Central)」が、なぜメキシコ壁画の傑作と言われて有名になったのか?というその理由、そして壁画に込められたメッセージについて、「タイトル、主な登場人物の解説、そして壁画である意味」という観点から考察してみました。

作者ディエゴ・リベラは、メキシコの不平等な現実や、先住民たちの貧しさ、その上に立つ白人支配層などを全て描き切りました。そのうえで、「正義は存在しない」ということを訴え、一体何を表現したかったのでしょうか。

筆者は、「神は存在しない、だから民衆よ立ち上がろう」という意味だと捉えました。このメッセージを、壁画という誰にでも目にすることができる媒体で伝え、分かりやすい表現にすることで、多くの人々に伝えることに成功したのではないでしょうか。

壁画タイトルに「夢」という意味の言葉を入れたのは、これが過激な思想だと思われないための、自己防衛の意味もあったのかなと考えます。それでも結局、大論争になってしまい、一部書き直しになっちゃったみたいですが。

この壁画は、間違いなくメキシコ壁画の傑作です。傑作すぎて狂気を感じるレベルです。個人的に大好きなので、今回ブログに書かせていただきました。是非、皆さまも実際の大きさで見て、迫力を味わってください!

ここまでお読みいただきまして、ありがとうございました。

それではまた!

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