キューバで観光してると必ず出てくるのが、口髭を生やしたカッコいいお兄やん「エルネスト・チェ・ゲバラ」。
でも、具体的に彼はどういう人で、何をしたから有名になったのか?よく知らない人もいるのではないでしょうか。
今回は、キューバ・ハバナの観光スポットである「革命広場」と「革命博物館」を訪れて分かった、ゲバラとキューバ革命について書いています。
この記事を書いているのは、昔ラテンアメリカの地域経済を勉強していた人。スペイン語話者なので、現地の資料も読解可能です。
これを読めば、「革命広場と革命博物館の見どころ、ゲバラの生い立ち、彼が成し遂げたかったこと、そして彼がなぜ有名になり、ラテンアメリカの英雄として知られるようになったのか」が分かっちゃいます!
早速読んでみましょう。
考察①革命広場にて
まずは、ゲバラの大きな肖像がある、ハバナの「革命広場」へ向かいます。
筆者が宿泊していた旧市街地から、「ベダード」(Vedado)というエリアに移動。距離にして、だいたい2-3㎞ぐらいはありそう。
現地は日差しが暑く、距離もちょっと遠いので、通りで流しの自転車に声をかけて、後ろに乗せてもらいました。キューバでちょっとお出かけするのに、台車付き自転車がメジャー。
お値段はよく覚えてないんですが、料金はハッキリしていて明朗会計、何のトラブルもなし。オープンエアなので風が涼しくて快適です。
なお、現地では英語はあまり通じないので、簡単なスペイン語が分かるとコミュニケーションに便利。自転車のお兄やんとも、簡単なスペイン語で会話しました。
よくある東南アジアの某国みたいに、トゥクトゥクに乗ったら最後、提携している店まで連れて行かれて降ろしてくれない、とかは、キューバでは一度もなかったです。ご安心ください。
そして、革命広場に到着!
画像は、キューバ革命のゲリラ指導者、ゲバラです。
彼の肖像の下には、”Hasta la victoria siempre”というスペイン語の言葉がかかれています。
これは日本語にすると、「勝利に向かって、常に」というような意味。
この肖像は遠くから見てもはっきりと見ることができ、大変目立つんですよね。この広場にこの言葉が掲げられた意味についても、後ほど考察していきます。
ゲバラのカッコいいスピーチ
まずは、ゲバラの生い立ちから簡単にさらっておきます。
ゲバラが生まれたのは1928年。
アルゼンチンの裕福な医師の家に生まれ育ちますが、喘息があって体は強くなかったそう。
大学の医学部時代に、友人とバイクで南米を放浪し、チリやペルーなど様々な国を見てまわった日記が、書籍『モーターサイクルダイアリーズ』に残っています。
同書によると、彼は旅の途中、ペルーのハンセン病療養所でしばらく滞在することに。
その施設でしばらくお世話になった後、帰る直前にパーティーが開かれます。そこでゲバラは、現地の医師やスタッフを前に、こんなスピーチをしています。
はっきりしない見せかけだけの国籍によって、アメリカ(ラテンアメリカ諸国のこと)が分けられているのは、全くうわべだけのことだと、この旅の後では、前よりももっとはっきりと考えています。
私たちは、メキシコからマゼラン海峡にかけて顕著な民族誌学的類似性を示す、一つの混血民族を形成しているのです。
ですから、心貧しい地方主義の重荷など全て打ち棄てて、ペルーと、統一されたアメリカのために、乾杯します。
『モーターサイクルダイアリーズ』より
ラテンアメリカは言語的に、ブラジルを除いてほとんどがスペイン語圏。そして経済的には、貧しい国が多いです。
南米でも比較的裕福な国とされる、アルゼンチン出身のゲバラは、旅を通じて他の南米の人々の実際の暮らしぶりを目の当たりにして、その格差にびっくりしたのではないでしょうか。
驚くと同時に、そんな厳しい生活の中でも、明るく真面目な人たちや、旅人であるゲバラに親切にしてくれる人たちに出会い、彼はこう考えるようになったのかもしれません。
国境や民族の隔たりはあっても、それは形式的なこと。南北アメリカは一つなのではないか、と。
日本で「アメリカ」という場合、おもに「アメリカ合衆国」のことを思い浮かべる人が多いんじゃないでしょうか。
一方ラテンアメリカでも、”America”(アメリカ)という単語はよく出てきますが、必ずしも合衆国を指していません。南米の人たちも、自分たちの住む地域を「アメリカ」と呼んでいるからです。
筆者は無知だったので、南米に行くまでこれを理解してませんでした。ただ、このことを知って以来、現地で「アメリカ」という言葉を使う時には気を付けるようになりました。
「真の革命家は、大きな愛によって導かれている」
ここで、よく知られているゲバラの言葉をご紹介します。彼のこんな言葉が残っています。
皆さんには馬鹿げていると思われるかもしれないが、真の革命家は、大きな愛によって導かれているのです。
Permítanme decirles, a riesgo de parecer ridículo, que el revolucionario verdadero está guiado por grandes sentimientos de amor.
Ernesto “Che” Guevara
上記で、彼は「真の革命家は、大きな愛によって導かれている」と言っています。これはいったい、どういう意味なのでしょうか。
彼の手記を読み、更にラテンアメリカ5か国ぐらいを旅した体験をもとに、考察してみます。
実際にペルーやボリビアなどのアンデス地方を訪れてみて、経済的な貧しさと、先進国との格差を目にし、筆者は衝撃を受けたことがあります。
でも現地の人って、みんな明るいんですよね。
家族や友達を大切にし、働き者で、音楽好き。外の通りでギター弾いて、歌ったり踊ったり、明るくてたくましいです。
かたや、日本は物質的には何でもあります。資源や自然に恵まれ、海産物や農作物も豊富。
そんな世界3位の経済大国ですが、ふたを開けてみると自殺率が高かったり、超高齢化社会が目の前だったり、経済成長率がマイナスだったりして、「日本人て、実はそんなにハッピーじゃないのでは?」というデータも。
南米と日本の違いを考えながら、「果たして幸せなのはどっちなんだろう」なんて思いつつ諸国を歩き回ってました。そうして現地の人とたくさん会って言葉を交わしていると、いつのまにか自分の価値観が変わってきました。
それまでは地球の裏側で暮らしている人たちの生活は想像すらつかなかったのに、一度現地で言葉を交わすだけで、彼らの存在が自分の中に入ってくるようになります。
単なる旅行者として現地を訪れたのですが、彼らと仲良くなればなるほど、気づいたらその現実を今まで通り見て見ぬふりできなくなってしまいました。
自分はたまたま日本に生まれ、彼らはたまたまラテンアメリカに生まれただけで、本質的には何の違いもないと思ってます。
となると、「たまたま先進国に生まれた自分にできることって、なんだろう」みたいな気持ちになってくるのです。
といっても残念ながら、私のような一個人にできることなんてほとんどないんですけどね!笑
ここでゲバラに戻ってみます。
彼は、そんな誰もが思ったことのある感情を無視してしまわず、口に出して主張し、人々の共感を得ていった人なのです。「大きな愛に導かれる革命家」というのは、多分そんな気持ちを表現したかったんじゃないかな?と想像します。
彼がアルゼンチンという比較的豊かな南米の国で、裕福な家庭に生まれながらも、わざわざ異国であるキューバ革命に参加した大きなモチベーションの一つは、恐らくこうした格差への「共感」だったのではないでしょうか。
ガイドブックに載ってないカミーロの逸話
さて革命広場には、画像のようなカミーロ・シエンフエゴスの肖像もあります。
カミーロは、キューバ革命でゲバラやカストロと共に、重要な役割を果たした人物として有名。ゲバラともウマが合い、良い仕事のパートナーだったと言われています。
画像の右下に、カミーロの言葉 “Vas bien Fidel” と書かれた文字を発見。スペイン語ですが、どういう意味なんでしょうか。
手持ちの某ガイドブック(〇〇の迷い方)では、これを「いいだろフィデル」と訳してあります。ただそれだけでは、ちょっと意味が分からないと思い、キューバで現地のガイドさんに聞いてみました。
その結果、実はこの発言には、ガイドブックには載っていないストーリーがあることが分かったのです。
ガイドさんいわく、ある時、フィデル・カストロがスピーチをした後で、ふと不安になり、「俺は上手く演説できたか?」とカミーロに確認したことがあったのだとか。
そう言われたカミーロは、こう答えます。
“Vas bien Fidel”(フィデル、君は上手くやっている)
カストロは、カミーロのその言葉を聞いて、「自分の演説が上手くいったのだ」と分かり、安心したのだそう。
カストロのようなリーダーでも、不安になってカミーロにフィードバックを求めるという所が、なんだか可愛らしいですよね。
また、カストロを励ます言葉をかけるカミーロの優しさが伝わります。カミーロの重要な立ち位置と、2人の信頼関係がよく分かるエピソードじゃないでしょうか。
この優しい言葉が、彼の肖像と共に革命広場に掲げられているのです。
ハバナで一番高い塔
ところで革命広場の周辺は、キューバの政治経済の中心地。次のような機関が集まっています。
- 共産党本部
- 内務省
- 郵政省
- 情報通信省
まさに、国家の中枢機関。
このような国家の中枢機関が集まるこの革命広場に、ゲバラとカミーロの肖像と言葉が大きく掲げられているというのは、とても大きな意味があると考えます。
二人が亡くなった後で、カストロはキューバの国家元首になります。国民的行事などで、カストロが革命広場に国民と共に集まる機会もあったでしょう。そのたびに、この二人の肖像を目にしていたのではないでしょうか。
“Hasta la victoria siempre”(勝利に向かって、常に)
“Vas bien Fidel”(フィデル、君は上手くやっている)
彼らの言葉をこの広場に掲げることで、いつも2人の友人ことを思い出し、キューバ革命当時のことを忘れないようにしてたのかな、なんて考えてました。
カストロは政治的には賛否両論あるようですが、人物としては「私利私欲に安易に振り回されない政治家だった」と言われています。
そんな彼の信念が、この革命広場で少し見えたような気がしました。
そして、どーん!
革命広場のすぐ隣には、画像のような高い塔「ホセ・マルティ記念博物館」が。筆者は中には入ってませんが、キューバ革命の貴重な資料が展示されてます。
この塔の高さは138.5m。ハバナで一番高いのだとか。
手前にあるホセ・マルティの像は、高さ17m。実物はかなり大きいです。
何か考え込んでる風のポーズが良いですよね。笑
考察②ハバナの革命博物館にて
次に、もっとゲバラを深堀りしようと、ハバナの旧市街地にある「革命博物館」に行ってみました。ここでは、キューバ革命の始まりから現在までの過程を、貴重な資料と一緒に見ることができます。
外観は、お城みたいな建物でした。1913-1920年の間に建築され、大統領官邸として使用されていたそう。
聞いた話によると、内装を担当したのはアメリカのティファニー社。そう言われてみれば、階段が大理石だったりと、豪華でした。(写真を撮り忘れた)
内装はさておき、特筆すべきは展示されているキューバ革命の資料の貴重さなのです。
キューバ革命についての展示物
上記の画像の右手に写真が2枚あります。上がゲバラ、下がカミーロですね。
上半分には、キューバ革命の説明がスペイン語で書いてあります。(下半分の筆記体は、崩れていて読めず)
ちょっと内容をみてみましょう。
(キューバ革命では)カミーロとゲバラが指揮官として反乱軍を率いていた。
その目的は、国中に戦争を拡大し、敵の軍勢を分散・弱体化させ、政権に反対するさまざまな武装グループを統一し、戦略的に独裁政権を崩壊させることだった。
革命博物館の展示より
上記では、キューバ革命について簡単に述べており、独裁政権を崩壊させることが目的だったと説明しています。
この「独裁政権」というのは、1952年にフルヘンシオ・バティスタという人が樹立した、アメリカ寄りの政権、いわゆる「バティスタ政権」のことを指しています。
独裁を敷いたバティスタ政権に対する、キューバ国民の不満が高まり、キューバ革命(1953年7月26日 – 1959年1月1日)につながっていきます。
カストロとゲバラの部隊の組織図
下の画像は、当時の反乱軍が、「カラム」と呼ばれた部隊に分かれて戦った時の組織図です。
革命博物館では、当時の作戦の実行計画が展示されていて、ありがたいことに撮影フリー。日本だったらこの辺りの情報は、非公開になっていてもおかしくない、貴重な資料ですよね。
黄色い四角で囲んだ部分から見てみます。反乱軍の組織図の一番上に、ホセ・マルティの名があり、その下にカストロ(左側)と、ゲバラ(右側)が並んでるのが分かります。
スペイン語で”jefe comandante”というのは、日本語で「主将」みたいな意味です。いわゆる将軍ってことですね。
この資料から、カストロとゲバラが、ホセ・マルティの下で、それぞれ「第1カラム」と「第4カラム」という名の部隊を率いていたことが分かります。
上記画像は、先ほどの資料の下半分の抜粋です。
右端の赤い四角部分には、スペイン語で”lugares de donde recibian abastecimiento”と書かれています。これは日本語だと「ケータリングを受け取っていた場所」の意味。
下方の地図に示された「第1カラム(Columna 1)」と、その隣の「第4カラム(Columna 4)」の配置場所と合わせてみると、各部隊の地理的な配置場所と、それぞれの部隊がどこで食糧補給を行ったかが分かります。
両部隊とも、食糧補給はいくつかの町に分散して行い、ずいぶん遠くまで受け取りに行く部隊もあったようですね。
こんなに詳しい戦闘資料が開示されているのは、とても興味深いですね!
不利な状況の中、反乱軍を勝利に導いたゲバラ
有名なサンタクララの戦い(1958年12月28日 – 1959年1月1日)の資料も発見しました。
この戦いは、キューバの中央部の都市サンタクララが舞台です。キューバ革命で、革命軍の勝利を決定づけたものとして知られています。
このサンタクララの戦いを指揮し、キューバ革命を勝利に導いたのが、ゲバラだったのです。
上の画像、左手の白黒写真は、サンタクララの戦いに勝利した時のゲバラ。見た目もちょっとかっこいいですね!
当時、政府軍の兵士は約3900人、一方ゲバラ率いる反乱軍は約340人。
圧倒的な兵力の差です。普通に戦ったら、反乱軍は負けていたでしょう。
ところが、ゲバラはこのエリアの通信網をコントロールし、敵の情報を得ていました。政府軍の増援部隊と物資を載せた装甲列車を襲撃する作戦を実行し、列車を停止させ、中の兵士たちを捕らえます。
このとき政府軍は「激しい戦闘の末に降伏した」と伝えられる一方、こんな逸話も残っています。
捕らえられた政府軍の一般の兵士たちは、すでに士気が下がっていた人もいたようで、「自分の同胞でもある兵士たちと、これ以上戦うことにうんざりしている」と、敵である反乱軍の兵士に語ったといいます。
もしかしたら政府軍の一般兵士たちにとって、ゲバラや反乱軍が戦っている理由がよく分かり、同胞として共感する気持ちがあったのではないでしょうか。
このエピソード、なんだかキューバっぽくて好きです。
ぐっとくるゲバラの言葉
そして、ゲバラが人々に向けて語った言葉も、魅力いっぱい。
少し紹介してみます!
上の画像の赤い部分は、革命博物館に展示されていたゲバラのスピーチ。
原文のスペイン語を日本語に訳してみると、だいたいこんな感じの内容です。
私はアルゼンチン生まれです。
そのこと自体は、秘密にすることでも何でもありません。
私はキューバ人であり、アルゼンチン人でもあると思っています。
これを聞いてラテンアメリカの輝くような皆さんが気を悪くされないことを望みますが、
私は「ラテンアメリカ」の愛国者であり、「ラテンアメリカのすべての国」の愛国者でもあると感じています。
もし必要ならば、ラテンアメリカのどの国の解放のためにも、私はよろこんで命を捧げます。
そして自分の命と引き換えに、誰かに何かを求めたり、何かを要求したり、誰かを利用することはしません。
革命博物館の展示より
何回読んでも、グッとくる名スピーチ(´;ω;`)
ゲバラが誰に対して語った言葉かは書いてありませんが、自分の出生地がアルゼンチンであることを冒頭で述べて、そのうえでラテンアメリカ全体への連帯を呼び掛けていることから、おそらく「革命の時に人々に向けた言葉」と推測できます。
筆者は博物館で上記のスピーチをざーっと読んだのですが、原文のスペイン語で読んでも大変分かりやすく、すんなりと頭に入ってきて、ちょっとゲバラに心臓をつかまれた感がありました。
できればスペイン語がお分かりの方には、原文で読んでほしいです。筆者の翻訳力のせいだと思いますが、日本語だとちょっと臨場感が異なります。
それぐらい彼の発する言葉は真摯で、誠実で、知性にあふれていて、今でも人々に愛される理由が分かったような気がしました。
記事の前半部分で紹介したとおり、ゲバラが学生時代に南米をバイクで旅行したとき、ペルーの病院で彼はこのように言っています。
「心貧しい地方主義の重荷など全て打ち棄てて、ペルーと、統一されたアメリカのために、乾杯」
改めてこのスピーチを思い出すと、この時から彼の主義主張の主旨は、ほとんど変わっていないことに気づきます。
現代日本では、ゲバラが言った言葉を事細かに目にすることは、自分で調べにいったりする場合を除いて、ほとんど無いと言っていいんじゃないでしょうか。
こうして革命博物館で、たくさんの写真や資料とともに彼の言葉をスペイン語で読んでみて、「こんなスピーチがサラッとできちゃうゲバラは、改めてかっこいいな」なんて思っちゃいました。
ゲバラとカミーロの仲良しっぷりが良い
博物館には、ゲバラとカミーロのパーソナリティが分かる資料も残っています。
下の画像のとおり英語ですが、こちらも少し訳してみますね。
資料によると、ゲバラはアルゼンチンの医師だけあって、厳しくて真面目な所があったよう。
「人生と人間のなすべき事について、非常に明確な目的を持っていた」と書かれています。
その一方カミーロは陽気でユーモラスな性格で、冗談を言って人を笑わせるのが大好き。ただ「教養は低く、小学生以下」という表現も。笑
そんな対照的なゲバラとカミーロは、非常にウマが合ったようです。「お互いに尊敬し高く評価し合っていた」、「出会ってすぐに意気投合した」とも書かれています。
次に、カミーロについてのスペイン語の資料も見つけました。
一部分だけ訳してみますね。
カミーロは1932年ハバナに生まれる。
カミーロはキューバ革命では革命軍の戦闘員であり、第1カラムと第4カラムを率いていた。そして1958年に司令官に就任。
侵略第2カラム「アントニ・マセオ」の隊長として西軍に進軍するという、不滅の偉業を成し遂げる。
カミーロは、ゲバラについて次のように語った。
「チェは百戦錬磨の仲間だ。戦争のどんな困難な場面でもフィデル・カストロに信頼されていた。彼は私利私欲のない戦士で、いつも自分自身と軍隊のために身を捧げていた。」
革命博物館の展示より
カミーロは、キューバ革命において、革命軍の幹部として重要な役割を果たします。上記の資料に「不滅の偉業を成し遂げた」と書かれていることからも、彼の功績の大きさが分かりますよね。
そして彼が語るゲバラの姿もまた、信頼関係にあふれているのです。「私利私欲のない戦士」というのは、カミーロのゲバラに対する最大の賛辞ではないでしょうか。
一方ゲバラは、カミーロが大好きすぎて自分の子供に「カミーロ」と名付けたという逸話も残るほど。2人の仲良しっぷりが微笑ましいです。
いち一般人としては、彼らがこんな信頼関係のある同志と出会え、一緒に戦えたということが、何だかうらやましくなっちゃうほど。笑
「やっぱり仕事は、チームメンバーが大事だよな」なんて思いながら見てました。
補足:革命博物館の裏庭にあるものとは
革命博物館を出て、「ゲバラとカミーロの美しい友情に乾杯(´;ω;`)」と思いつつ、裏手を歩きます。
この周辺は、緑が多く静かで、気持ちの良い通り。
歩いていると、何やら飛行機の尾翼みたいなのが見えてきました。
何とびっくり、キューバ革命で使われた戦闘機などが展示されているのです!
しかも下の画像のように、屋外にバーンと置いてある、豪快さ。
上の画像の左手、制服を着た男性が外を見ています。
実はこの辺りには警備員さん(恐らく軍人と予想)がたくさん配置されていて、厳しい目つきで周囲を警戒していました。
どれぐらいの警戒度かというと、この数枚の写真を遠くからパシャパシャ撮るのも、ちょっとはばかられるぐらいの物々しさ。
後で聞いた話では、24時間体制で見張ってるのだそう。
ビビりな筆者は心の中で、「もし軍人さんに写真について何か言われたら、何て謝ろうかな。。」と思いながら、パシャパシャ撮影した記憶が。
キューバでこんなに警戒度が高いエリアは、これまで行った中ではここが最大レベルだったのではないでしょうか。
そして、ちょっと見えづらいんですが、ガラスの向こうには、キューバ革命で実際に使われたヨット”Memorial Granma”(メモリアル・グランマ)が展示されています。
上の画像の左手に、少しだけヨットの一部が見えているのが分かるでしょうか。
このヨットは長さ18m。1956年の革命の時に、カストロたち81名の革命軍を乗せて、メキシコからキューバまで輸送したという貴重なもの。
この大切なヨット「メモリアル・グランマ」はじめ、その他の貴重な戦闘機などを守るために、こんなに厳しい警戒態勢が敷かれていたのです。
<革命博物館へのアクセス>
住所:Calle Refugio nº1, La Habana – Cuba
開館:10:00-17:00
入場料:8CUC
まとめ
以上、「革命広場と革命博物館の見どころ、ゲバラの生い立ち、彼が成し遂げたかったこと、そしてゲバラがなぜ有名になり、ラテンアメリカの英雄として知られるようになったのか」について、書かせていただきました。
個人的に、この2つのスポットを見てまわることで、ゲバラのかっこよさと、カミーロとの仲睦まじさがビシバシと伝わってきて、ちょっと感動しちゃうほどでした。
キューバ革命の時代をともに歩んだ彼らの素敵さが、少しでも伝われば、嬉しいです。
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